あさかわ花火物語

弘法の紅花(こうぼうのべにばな)1/3

江戸後期、浅川村は越後高田榊原藩の飛び領地として治められていた。東北地方は、陸奥国(むつのくに)と言われ、概ね現在の青森、岩手、宮城、福島を含めた地域にあたり、俗に奥州(おうしゅう)と言う名で呼ばれていた。平安時代までは、道奥(みちのく)であり、「みちのく」は東北地方を呼ぶ名称として現在では一般的にも定着している。

浅川村は奥州でありながら、越後の支配下にあり、高田榊原藩の飛び領地は、浅川村を含めた陸奥国白川、田村、石川、岩瀬などの四郡、周辺の村百二十二に及び浅川には陣屋(じんや)が置かれ、その奉行職がこの地域を統治していた。
この当時の陣屋は、石高が三万石に満たない城を持たない大名や飛び所領を有する大名がその地を統治するために置いたものであり、浅川はこの地域を治めるための主要な位置付けとなっていたのである。

寛政九年の春、この浅川では田植えの時期になっても苗代(なわしろ)の苗が成長しないほどの日照不足となり、加えて田植え前には雹(ひょう)が降り、浅川領内の村々での苗代の被害は甚大なものとなっていた。ところが白河、棚倉などの地域には全く被害がなく、狭い地域での異常気象によるものであったに違いない。

現在でも浅川では、春先に近隣に比べて著しく多い降雪があるなど、標高の影響等からなのか、地域特有の気候がみられることがある。
浅川領内での各村では、僅かに残った種籾(たねもみ)で二番苗代を作り作付けを行ったが、あまりにもその時期が遅かったため、水田の三分の一は作付け不能となり、さらに夏から秋にかけての不順天候により、この年の米の収穫は壊滅的な打撃を受けてしまったのである。

この状況を是非理解していただき、年貢の減免をしてほしいと、百姓たちは庄屋に嘆願するものの、その願いは高田榊原藩に伝えられることなく、庄屋たちの手で握り潰されてしまっていたのである。

百姓たちが、年貢の捻出に苦しむ中でも庄屋たちは、献上米を納めるため秋には米八百表を陣屋へ供するようにと申し付けながら、そのほとんどを庄屋たちは自らの費用へと流用していたのだった。もともと浅川陣屋支配下の庄屋たちは、自らの私利私欲におぼれ、その非行の数々が百姓たちを苦しめていた。

庄屋はこの当時、名主(なぬし)とも呼ばれ、地方三役(じかたさんやく)のひとつであり、年貢の諸役や行政的な業務、村民の法令順守、上位下達、土地の管理など支配に関する諸業務を下請けしていた。庄屋の身分は百姓であったが、地元の有力な豪農が多く、戦国大名の家臣だったものも少なくない。それゆえに、庄屋の中には勝手気ままな振舞いをする者が多く、年貢の不正や村民に対する私的夫役を行うなど、百姓一揆など騒動の主な要因を彼らが作りだしてしまったとも言われている。

支配階級の末端としての立場と被支配階級の代表者としての立場を共に有しており、この立場が庄屋を曖昧なものとし、その社会的機能を不明朗なものとしていたのである。

飢饉に見舞われた浅川村、そして横暴な庄屋たちの振る舞い、百姓たちへの抑圧は日々の暮らしを苦悩の日々へと変えていった。やがてその百姓たちの憎悪と怨恨は彼らを異常な衝動へと駆り立て、この地は悲惨な運命を辿ってゆくことになる。

 浅川村に住む半十郎もこの飢饉に苦しむ者の一人であった。半十郎一家は年老いた両親と女房、まだ数え三つの幼子(おさなご)、そしてこの秋に生まれたばかりの赤子と共に暮らしていた。半十郎は日々畑に鍬(くわ)を入れながら、生きることへの厳しさに苦悩していた。

このままでは、家族全員が生きてはいけない。家財道具を売っても年を越せるかどうかわからない。半十郎は憔悴(しょうすい)し迷いの末、心を決めた。家に帰り半十郎は女房にそのことを話し始めたのである。話を聞いた女房は狂ったように泣き叫び、半十郎にどうかそれだけは止めてほしいと胸にすがり哀願するのだった。半十郎も同じ気持ちであったに違いない。しかし、背に腹は変えられない、生きるための選択を半十郎は迫られていたのである。

次の日、まだ夜明け前の静かな朝に半十郎は震えるその手で生まれたばかりの赤子の口と鼻を塞いだのであった。女房は疲れたようにうなだれ、うつろな眼差しで半十郎を見つめその袖を強く握りしめた。半十郎は女房に言った。

「この子は病気で死んだんだ。今はどこでも、誰でもみんな病気になっちまった。」
この飢饉の年、このような悲劇があちこちの村々で起こっていたのであった。年老いた親を背負い山へ向かった者、まだ幼い子供たちを働きに出させる者もいた。

自分が己の命を絶てば、働き手がなくなり、家族全員が路頭に迷う、されど全員が生きてゆくのは無理なこと。我が子を手にかけてしまった半十郎の深く大きな心の傷は、後の半十郎の行動を狂気へと誘うその大きなきっかけとなっていったのである。

女房は来る日も来る日も泣きながら鍬をおろし、幼子は空腹のために泣き叫び、年老いた父親は何も語らず、日ごとに痩せ衰えていく。このような百姓たちの苦しみと怒りは、すべての人々を惨劇の渦へと巻き込んでゆくのであった。