あさかわ花火物語

弘法の紅花(こうぼうのべにばな)3/3

これらの不満が一揆騒動において、庄屋などの村役人のほかにも産馬の保護奨励を直接司っていた、駒付役(こまつけやく)や馬商人である馬喰(ばくろう)が一揆騒動の被害者になった理由でもあった。

半十郎は、隣の部屋の襖を打ち破った、そこには震える身体を猫のように丸めながら怯える侍女(じじょ)がいた。半十郎の顔を見上げ大きな悲鳴とともに震える声で命乞いをした。大鉈を持ち仁王立ちした半十郎のその姿、返り血を浴びた顔はまさに鬼畜(きちく)のごとく、その大鉈で斬り付けようとされる身には戦慄(せんりつ)が走った。

後にこの時の庄屋殺害の現場証言が庄屋の遠縁にあたるこの侍女によって行われ、半十郎は一揆首謀者の一人として捕らえられることになる。

一揆は次第に膨らみ、翌日も翌々日も続き浅川領全域に及んでいった。時の陣屋領奉行、伊藤勘左衛門が説得を繰り返したが聞き入れられず、伊藤らは隣の白河藩、棚倉藩にも加勢を依頼し騒動の鎮圧にあたった。

一揆勢は浅川陣屋にも押し寄せ、陣屋側の応戦で一揆勢の数人が殺害された。奉行はこれ以上の犠牲者を出さないために苦渋の判断を迫られ、一揆に対してのお咎(とがめ)なしの申し渡しを行い、一揆側がこれを止む無く了承し一揆は引き上げられて領内はようやく沈静化した。

しかし、お咎めなしの申し渡しをしたものの、領内でこれだけの事件が勃発したのである、高田榊原藩としては幕府にも近隣各藩にもしめしがつかず面目がたたない。首謀者とされる者を特定、処刑して一揆騒動の幕引きを行おうと考えた。

庄屋の一件により半十郎も一揆首謀者の一人として打首獄門の刑に処せられることになった。半十郎は幾日にも続く厳しい取り調べにも拷問にも屈せず、ただの一言も言葉を発しようとはしなかった。自分が殺めた赤子の命も手にかけようとした庄屋の命も同然であると、人を殺めた自らの所業を自らの命をもって償おうと意を決していたのである。

粉雪が舞う、震えるような寒さの中、社川と殿川の合流する現在の弘法山公園の麓で処刑が行われた。打首が行われようとするその直前でも半十郎は落ち着き払い、まさに菩薩像を思わせるようなその表情は、静かに目を閉じ身動きひとつしなかった。

多くの百姓たちがその状況を見守り、自分達の犠牲となって命を失う彼らに手を合わせ惜別の涙とともに祈りを捧げた。

彼ら首謀者たちのその骸(なきがら)は、粗末な扱いを受け近くの寺に犬猫同様に葬られたのだが、農民たちはもう一度骸を丁寧に埋葬しなおし、彼らの遺品を処刑場であった弘法山に埋めたのであった。

その年の初夏のできごとであった。首謀者が処刑されたその場所に赤く小さななでしこが一面に息づいていた。その花は小さいながらも花びらを互いに寄せ合い力強く、鮮やかにその姿を映し出していた。そしてこの花は翌年もそのまた翌年も赤い輪を広げ、この地の悲惨なできごとを癒すように咲き続けていた。

この騒動において犠牲となった多くの人々と短い命を絶たれた赤子の冥福を祈るように咲くこのなでしこは、未来永劫にわたっての息災と平和を願った彼らの思いであると人々は解し、幾代にもわたってこの地に祈りを捧げてきた。

そして人々は、この騒動の犠牲者や幼くして失った命を慰めるため、各方々から善意で寄せられた資金により花火を打ち上げた。

その花火は200年以上も過ぎた現在においても毎年8月16日のお盆の夜に町の青年会の若者達の手により、伝統の慰霊花火としてこの一揆の村、浅川の夜空を焦がしている。

この騒動において、歴史的文献や諸記録の中にも高田榊原藩、陣屋に対する農民達の怨嗟(えんさ)の声は余り見当たらない。むしろ大庄屋、庄屋、駒付役など中間支配層に対する怨恨が暴動勃発の要因と言える。高田榊原藩は農民達の訴えに応じて、騒動の後に困窮している村々へ金一両から三両を与え農民達の意を汲んだとも伝えられている。

花火打ち上げに際して、当時、火薬の主たる原料であった硝石の確保も加賀前田藩から越後高田藩への供給を通じて浅川に渡ったと伝えられている。
当時の浅川陣屋奉行、伊藤勘左衛門が、処刑された者や騒動の犠牲となった者たちを哀れみ供養の意を表して一首を詠んでいる。

「日々につくりし 罪はちりほこり
南無阿弥陀仏と 祈るなりけり」


浅川の花火は元来、この浅川騒動の首謀者が処刑された弘法山で打ち上げが行われていた。現在、時代の変遷とともに打ち上げ場所は滝輪郷の水田地帯となっているが、花火大会当日、8月16日の慰霊祭は由緒あるこの弘法山で厳粛に執り行われる。

慰霊祭は神仏混交の儀式で行われ、慰霊祭の始まりは定かではないが、浅川の花火は寺花火とも言われ、古くから僧侶による供養が行われていたと伝えられている。

太平洋戦争の戦時下においては、火薬などの物資も乏しく厳しい世相にありながら、浅川の花火は、慰霊の花火として英霊の供養も行ってきたことを理由に戦時中でも当局から特別に許可され、途絶えることなく打ち上げが行われてきた。

現在の弘法山には、観音堂に如意輪観音、文殊菩薩が祀られており、浅川陣屋処刑場跡の石碑がひっそりと建立されている。

花火大会を主催する「青年会」の起源は、江戸時代の「若者中」まで遡ると言われ、明治後半に「若い衆」若組となり、後に現在の「青年会」に至っている。

浅川町(荒町・本町)の各家々には、先祖より伝承された手づくり花火の秘伝を記した「花火家伝帳」や「火術伝帳」が残されており、古くは江戸後期の弘化、安政時代のものも見られる。花火は各家々で秘伝の火薬調合法により製作され、その秘伝花火の打ち上げは昭和10年頃まで続いていた。
この秘伝花火の伝統は、火薬類取締法が施行された現在においても青年会で自らが製作する「大からくり」となってその秘伝の技が継承されている。

「大からくり」は太い丸太を組み合わせ青竹を結びつけて製作し、絵柄や文字を浮き出させる仕掛け、飛び散る七色の閃光、爆裂音を響かせるなどさまざまな仕掛けが組み込まれており、浅川の花火の呼び物のひとつになっている。「大からくり」は花火打ち上げ場所までの約2kmを見守る観衆の声援を受けながら勇壮に町内を練り歩き搬送される。

「大からくり」は、青年会の団結と誇りの証しであり、時代を越えて伝統の慰霊花火を継承するそのシンボルとなっている。